2008年11月10日月曜日

風の結晶から、透明な千年が涌きいずる

銀座はSHISEIDOGALLERYにて、12月21日までやっています「津田直 SMOKE LINE風の河を辿って」。小さな展示場ですが、とてもすばらしい空間に仕上がっていました。

写真家津田直氏が3年の歳月をかけ旅し収めた、中国、モロッコ、モンゴルの風景たち。
「深い奥行きと透明な空気感、鋭さと強さ」

展示の仕方も、写真の意図を存分に表現していてすばらしかった。
そこは銀座の地下にある四角い一室だけれども、じーっと写真の流れを見つめていると
自分が無となり、ふっと一瞬「透明な帯」のなかにとけこむことができる気がします。
どこまでも、
国境はまるで存在せず、風に地に溶け込むように、渡る。









いただいたリーフレットの文章をその空間で読んでいたら、ふと涙腺がゆるむ感覚にとらわれました。

2005年3月、中国安〇省休寧県萬安の街で羅針盤を手に入れた僕は、蔵風じゅ水の教えから風には陰風と陽風の二種が存在することを知った。再び目覚めた朝、奇峰怪岩が散在する黄山へと向かい、かつては「海」であっその頂で一声を放った。千変万化する雲海の中、木霊は5度響き、再来の声は山嶺の合間を通り風声に消え入った。帰途、まもなく水没するという村々を訪れながら長江を下った。それから数日間、水を分け背に伸びゆく航跡を真夜中まで眺め過ごした。

次なる移動は「乾き」を求め、沙を片手にはじまった。たどり着いた先は北アフリカ、モロッコの山峡の地にある村、シケール。未だ電気は通っておらず、昼間でないと辿り付く事すら困難なところだ。家々は大地と同化するかのような色彩で山肌に溶け込んでいる。乾ききった喉の奥に水を求めるノマドの声が聞こえ始めたとき、ターバンを解き、流水を求め沙漠へ南下することにした。出会ったノマドの青年は、名も無きひとときの湖へと誘ってくれた。その晩、僕は沙漠の下を流れる河の存在をはじめて知ることとなった。

帰朝し、再びモロッコへ降り立ったのは2007年初秋の頃。ベンベル人の血を引く初老の詩人と待ち合わせた。彼は生きた地図のような人物で、僕はペンとカメラとわずかな荷物と食材を積んで古城塞跡の道を俯瞰しながら歩んだ。やはり沙漠に地図は無かったが、ノマドの脳裡に書き留められた術が道標となり行先を照らし続けた。

世界を透明に見通すには、目を瞑ることを恐れてはならない。
世界は透明な帯に保たれているのだ。
すなわち風の河。
その結び目に高峰や大河があり、目には映らない日さえある。
だから僕たちは、透明な帯の端を決して手放してはならない。


風に従い、旅の結びに訪れたのはモンゴル北部、ツァガーン・ノール。
青い馬を連れたシャーマンが来たる日を予言し出迎えてくれた。
白煙が空へと立ち昇り、口元のオルガンが鳴りはじめたとき
僕はこの航海の碇をそっと降ろし、煙の道を辿った。
風の河に導かれるように。


津田直


あまり多くを語るまい、と思います。
ただ在るということ、その偉大さ。


・・・・・・
多くを語るまい、と言いつつ少しだけ、
思い出したことを書きます。

今展をみて、
以前、森アーツセンターで開催されていた「グレゴリー・コルベール展」を観たときの感動を思い出しました。



違うのは、あちらは「飲まれる」ほどの強さをもっていたということ。(圧倒的で、心の臓から湧き出るような感動でした。)



津田氏の映す世界も、グレゴリー・コルベール氏の映す世界も、我々の日常と遠く離れすぎていて、容易には想像できませんが
地球上には人間と動物と地と風と水と・・・万物、果ては時間という枠組みすら薄い場所があるのだということを強く感じます。
そういう世界に自分が触れ合うことは、生涯一度として無いかもしれないけど、
ずっと続くこの先も、永遠に在り続けてほしいなあとぼんやり思うのです。
縁のない世界に触れられるのは、誰かの目を通した(今回のような)瞬間で、それも会場をでるまでの話。
だけども一人の夜にこうしてふと思い出し
“ずっと続くこの先も、永遠に在り続けてほしいなあとぼんやり思”ったりすることくらいはできるのです。

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